新千葉 ガーベージ・コレクション

FPGA マガジンやインターフェースで書けなかったこと等をちょぼちょぼ書いてます。@ryos36

ミュシャは二流の画家、その絵はオタクのいう萌え絵程度の絵で、芸術ではありません。

ミュシャは二流の画家、その絵はオタクのいう萌え絵程度の絵で、芸術ではありません。

どこの誰だか知らないが、twitter のつぶやき。なんだかね。

ムハって書いたほうがいいの?まぁミュシャでいいや。

「彼の出世作は1895年、舞台女優サラ・ベルナールの芝居のために作成した『ジスモンダ』 (en:Gismonda) のポスターである。(wikipedia)」1895 年だから印刷技術が上がってきてカラーで大量生産できるようになった頃。この技術のおかげでミュシャは芸術家というよりいまでいうなら商業的なイラストレータとして成功した人だという印象は確かにある。 スラブ叙事詩はその後。wikipedia によるとスタートは 1910 とある。50歳で始めて70歳で完成。

作風は「女性と様式化された装飾の組み合わせが特徴的(wikipedia)」とあるように一種のブロマイドだったわけだ。そういういみではある種類の商業的な香りは否定できない。いずれにせよ、イラストレータとして一流(売れっ子という意味で)であったことは間違いなさそう。

描く女性像には、なにかしらの強さを感じる。サラ・ベルナールのポスターを幾つも手がけているところを見ると、なんかしらの共感があったのでしょう。装飾もデザインも素晴らしいし後のスラブジョジョ詩じゃなかった、スラブ叙事詩、とも合わせて大きな功績を残したと言えるのじゃないかな?どっかの誰かに二流と評される言われはない気がする(まぁ個人の感想なのだからそういうのなら仕方ない)。

評した人は「二流」の言葉の中に「大衆的なちんぷさ」を表現したかったのかもしれない。都内の渋谷あたりで開かれたミュシャ展は確かにその「ちんぷ」さが漂っていた。輸入して並べてハイみたいなチンプさ。同時期に千葉市美術館で展示していた同じジスモンダでも質が千葉のほうが良かったように思うし、展示もミュシャという視点ではなくオルリクと合わせていて、キュレーターの意図を感じた良い展示だった。

余談だが、千葉のオルリクの作品では、ん?ウォーホル?と感じる部分があって、後でキュレーターの人に聞いたら、キュレーターが意図的に並べたということ。時代的に会わないからおかしいと思ったよ。キュレーターの後知恵なのか、オリジナルの作品の意図なのかを区別するのは難しい。

われわれは、現代に生きているのでウォーホルもオルリクもミュシャも同時にみてしまう。その時代にさかのぼって見ることは出来ない。ミュシャ後の世界でいろいろな「チンプ」なものを見ているので、それを「類型的」で価値なしとはなかなか言えない。その「類型」の創始者かもしれないのだ。ピカソキース・ヘリングを正確には評価できないということだ。人間にはその能力はない。かといって美術評論家や哲学者もどき?の意見をそのまま鵜呑みにしていいのかも難しい。美術鑑賞には誰かが仕掛けた戦略かもしれないという罠はいつもつきまとう。青が特徴的な髪をゆう少女の絵やオークションで切り裂かれた”名作"は誰かが暗躍しているかもしれないのだ。

結局、自分の目を信じるしかない。

で私の感想は「描く女性像には、なにかしらの強さを感じる。」だ。

女性像はマリリン・モンローと前と後ではえらく違うと思う(私見です)。女性を何かの装飾品として扱うことが多かった(多い)ハリウッド的手法が横行する現代に生きる我々は、当時の女性像を正確には感じることが出来ないだろう。1890年ごろ(印刷技術があがってきたころ)から1950年ごろ(ハリウッド的な女性像が蔓延し始めるころ)前までの女性像はそういう意味では貴重だ。印刷技術という意味では日本は浮世絵の技術が飛び抜けていた(だろう)から、日本に限って言うともっと前からとも言えるかも。

浮世絵だったり竹久夢二だったり北野恒富だったり(あ〜全部、千葉市美術館の受け売りだ)はマリリン・モンロー以前の女性像で、過度にセックスとしての女性を強調していない(春画は置いておいて、、、)貴重な時代の女性像だと思う。そして、マリリン・モンロー以後に生きる我々はもう二度とあのような絵を作ることは出来ない。

日本のそれらの絵に比べると、やはり、ミュシャは「強さ」を持っているように感じる。「類型的」どころか、他に類をみないのではないだろうか?クリムトもどっちかというと色っぽいからね。ミュシャはそういう意味で独特。サラ・ベルナールに影響されたのか?単にスポンサーの意向を聞いただけなのか?は不明だが、その後に、スラブ叙事詩を描いたところを見ると、そういう気質の画家だったのだなぁと思う。

つぶやいた人の話に戻る。

多分、美学という学問の中ではなにかしら体系的なものがあって、ある種の統一的な順序付けに伴う、一流、二流の基準があるのでしょう。でも「おたくの言う萌え絵程度」という評や「類型的」という評は、私からすると、ん?後知恵で物言ってない?と思ってしまうよ。野球ファンの「いまのはバントでしょ」みたいな。 だって、「萌え絵」は過度にセックスを強調した特徴がある(たぶん)からね。それはミュシャにはないよ。むしろ、見るものを見返し正対する強い視線を感じませんかね?作品にもよるでしょうが。

何を言いたかったかったのだろう?プロフィールを見ると哲学者らしいよ。

ロールズを引き合いに出して。まぁ、ここは高校の倫理社会と大学の宗教論(落ちそうになったぜ)程度の知識しかないので墓穴を掘りそうだけど、、、あえて書いてみようか。ロールズなみにボコボコにされそうな予感は駿河

ロールズの主張は時代背景的なキーワードとしてモハメド・アリだったり、ウッドストックだったりというのがあった頃だと思うんだよね。でも、「あいつらギター燃やして音楽の何たるかをわかっていない。そんなことせずに、ちゃんと勉強すれば、戦場にはいかないのだ!!」とは主張しなかった。合理的な考えを要求はしていたから微妙ではあるけど、基本的には弱者の立場にたって世の中のルールを作っていこうよと主張した人だと思う。そういうコンセプト提示が哲学者の役目だよね。

何を言いたかったかったのだろう?

芸術はちゃんと勉強したものにしかわからないよ!!という主張なら哲学者としてちょっと悲しい。もうちょいよく解釈してみるか。チンプな大衆迎合をするなかれ。全体主義こそ我々の敵だとか言いたかったのかもしれないね。そうあるといいな。

真意は謎だが、周辺化された弱者を考えるならもう少し表現を考えたほうが良かったかもしれない。 私は、わざわざ人の家に土足で上がってきて、 「なんだインスタン麺なんか食べているのか!こんなものは三星レストランに比べたら料理じゃない!」とか 「こんな音楽を聞いているのか!」「こんな絵を飾っているのか!」 と言っているのにかなり近い気がしているんだよね。

twitter ってのはこういう出会い頭の衝突みたいなのがある世界だから、土足で上がってきてというのはちょっと違うかもしれないね。もっと、みんなで、なま暖かく見守るのがいいのかもしれない。

でも、哲学者なんだよね。なんか社会にコンセプト提示する立場だよね。まさか炎上して言葉遊びをするゲームを楽しんでいるということはないよね。ゲームという言葉をチラ見したのでちょっと気になるよ。 そのゲームはそちらの土俵だからこちらはその土俵にあがるのも辛いし、自分のお気に入りを twitter という井戸端会議の場とはいえディスられたら気持ちがいいものではないよね。私はあまりミュシャの件にはひとそれぞれという気持ちがあるからまぁいいかなとも思うし、当てていると思う部分もあるから気にはなるけど、まぁ twitter だよね、見知らぬ誰かに「おまえ」呼ばわりされる世界だよね。という気持ちもあるからまぁどうでもいいやと見過ごせるけど、、、

哲学者と名乗る人が、「人の気持ちをざわつかせる表現をしておいて、ゲームに参加してね、いつでも OK。」みたいな、今の時代にわざわざ、分断の種みたいなものをまくのはどうも釈然としない。なんかしらのコンセプト出して(真意が謎すぎる)世の中を議論させるならもうちょい建設的な議論に向かわせる何かをしてくれよ。

まぁ、でも他のつぶやきをみていると、どうも本人自身も年齢的なものであったり健康的な部分で周辺化されているようにも見えるから、人間、弱くなるとなんか気を紛らわさないといけないのかなという感想もある。そういう意味で、twitter の民としてはみんな適当につきあってあげるというのが落とし所なんだろうね。

やれやれだぜ。