グローバリズム

近所の教会に集散する人々とホテル周辺の見慣れた近代的町並みの対比を見て考えた。一体全体グローバリズムとは何物だろうか?最近読んだ村上龍の本にも何の定義もなく「グローバリズム」という言葉が出てくる。ザグレブの人たちとりわけ xylon の人たちはみんないい人たちで我々へのサービスは行き過ぎといってもいいくらいよくしてくれる。街にある店の雰囲気もフレンドリーで学生時代に東北に一人旅したときのことを思い出させる。乗る電車ではしらないおばちゃんから声をかけられ、食堂でも声をかけられる。人の移動がすくない小さな街はその街ひとつが一種の家族的な関係になるのかもしれない。人と人との距離が近いといってもいいかもしれない。

人の流動性の低い街では各店もある程度安穏としていられる。千葉の中心街ではあまりみなくなった小さな工具店や雑貨屋はこの町では健在で、もちろん、ちょっとした大きなスーパーも近くにあるのだが、それでも小さな店や市場も共存できている。グローバリズムとはそのようなローカルな店々を急激な変化とともに壊してしまう悪者なのだろうか?

「名物にうまいものなし」ということわざがあったかどうかは知らないが、行動範囲が狭く人の流動性が低かった時代は限られた範囲での競争で、その範囲で勝てれば名物になれた。しかし、多くの人が海外に行き、新しい情報が入ってくれば、外の情報やら何やらと勝負して勝たなくてはならなくなる。流動性がもたらす急激な変化、これがグローバリズムの本質なのだろうか?

しかし、流動性が低い土地であっても多くの時間が費やされれば特別な存在があらわれることもあろう。その町に生まれ育ったにもかかわらず、特異的にすばらしい名コックが現れるということもあるだろう。その場合、既存の店はその新たな的と戦わなくてはならない。負ければ最悪店を閉めなければならなくなるかもしれない。これはグローバリズムとは関係ない単純な淘汰の問題だ。

グローバリズム」「グローバリズム」と言うがどんな名前をつけようが結局商売につきまとうのは淘汰だ。外から来ようとうちから来ようと商売敵は商売敵であり、それに勝つが負けるかしかない。規制緩和やインターネットによる情報取得の早さが淘汰のスピードを早くするかもしれないが、それは敵も自分も条件は同じなのだ。

結論を書くと「グローバリズム」なんてたいそうな名前におびえずに自分のやるべきことをこつこつと積み上げてちょっとでも商売敵の先を行くようにする。おそらく、古今東西商売の手法に違いはないと思う。