ザグレブの空の色

ザグレブの空の色はイタリアの突き抜けるような雲いっぺんもない紺碧ではなく日本人の我々がよくしっているうす曇のかかった水色の空だ。地中海というより内陸の空なのだろう。日差しも日本の5月とそうかわらない。10:00現在気温は25度、湿度は50%。5月の日本と比べるとじめっとしているが夏の日本より快適という印象だ。
時間が余ったので近所を一人で散歩してみた。すぐそばにはスーパーがある。そのよこにはスロットマシーン。トレム(路面電車)にそっていくつも店が立ち並ぶ。日本の都会では消えてなくなりつつある商店街が延々と続く。目新しいのは携帯電話ショップくらいで特記すべきような店はない。近くの広場ではザグレブのセンター街(?)とどうように市場が立っている。簡単に言えば農業会館の前の市場みたいな感じだ。といってもこれは新千葉に住んでいる人しかわからないか、、。
T と書かれたビル(おそらく T-mobile のビルを)横目で見ながら裏道を歩くと サッカースタジアムがある。ここでカズはプレーしたのだろうか?土曜の夕方に試合はない。がら〜〜んとしたスタジアムを芝刈り機が淡々と右から左に動いていく。さらに足を進めると奥の方にテニスのクレーコートがあるようだったが今日のところは別段素人のテニスを見たいわけでもないのでそのまま帰ることにした。
多くの家の屋根はレッドクレーだ。イタリアでよく見る赤いレンガのような屋根の色をしている。ダバーいわくこの辺の土質だそうだ。ドイツではもっと茶色いらしい。家は石造りかコンクリート作りが大半だ。
今住んでいるアパートもおそらくコンクリート化何かで出来ている。入り口のドアは重い茶色の扉で朝青龍でも楽に通れそうな横幅の扉だ。その割り意はベットのサイズは小さい。xylon であった大半の人は180cmを超える大男だったのだが、町で見かける歳よりは私より背が低い人も多い。世代間で食糧事情がちがったことを思わせる。部屋のサイズは申し分ないのだが、困ったのはネットへ接続する手段が部屋にはないのと台所の換気扇だ。
無線LANを調べると10を超えるネットワークが見つかるのでインターネットが普及しているのは間違いない。しかし、この部屋にはインターネットにつながる口がない。電話線すらみあたらない。今手元にはボーダフォンのUSBデータカードがあるのでネットにつなげることは出来るのだが日本に比べると格段に不便だ。コンクリートで家を構えてしまう民族と「けんかと火事は江戸の華」と言って木造建築でスクラッチ&ビルドを得意とする民族でどちらがグローバル社会に適応できるのだろう?私は江戸文化の対応能力を高く買う。言いも悪いも日本はスクラッチ&ビルドが得意で、しかもそれを表す適切な言葉がないくらい(実は)身についているのではなかろうか?ザグレブで最先端の企業のはずの xylon ですら ADSL 接続である。日本では新千葉のアパートの一人暮らしの住人でさえ光ケーブルだ。東京や千葉ではその建築物が木造であってもコンクリートであっても古くなればどんどんと壊される。千葉駅前の再開発をみても「なんでこんな古ぼけたいたずら書きのあるビルがいつまでも残っているんだ?」という感覚だが、その「いつまでも」というのはここ20〜30年くらいのスパンなのだ。50年もしたら骨董品だ。千葉近郊で50年も前のビルを実際に使っているところは少なかろう。しかし、ここでは xylon のビルは 1920 年のビルだし、私が今住んでいる地区の大半は50年以上前の建物をメンテナンスして使っているのだ(と思う)。この感覚や事情はザグレブ特有ではなくヨーロッパ全土ではなかろうか?それほど多くのヨーロッパを回っているわけではないがベローナやパリはそうだと思った。
建物の落書き(グラフィ)も半端じゃない。いたるところに書かれている。この落書きは何年生きているのだろう?千葉でも栄町のシャッター街に陳腐な落書きを見ることが出来るがあと10年もすればビル毎なくなると思う。そして落書きを不愉快に思う地元住民やら商店街やらが協力してちょっとずつ消したりといった”カイゼン”をするかもしれない。そういう民族なのだ日本人というのは。
もうひとつ閉口していることがアパートの台所の換気扇である。換気扇とは名ばかりで、、、、いやいや、あるいはそう呼ばないのかもしれない。とにかく、扇がついていることはついているのだが、それは部屋の空気を攪拌するだけで外に排気することはない。非常に危ない。CO がでたらひとたまりもないだろう。さらに恐ろしいことにガスは無臭である。おそらく一酸化炭素中毒やガスでの事故はあtったはずだが、オウンリスクなのかなんだかしらないが、ここでは”カイゼン”されている気配がない。仕方がないので調理中はなるべくトイレの換気扇をまわすことにしようと思う。これはかなりなさけない。
近所のスーパーに買い物に行くと日本と違う面白いシステムになっていることに気がつく。日本ではいわゆる過剰包装で野菜も取りやすいように小分けになっている。しかし、こちらでは野菜や果物は一箇所に山積みになっていて勝手に自分で袋詰めしなければならない。ここまでは日本以外の土地でよくある話だ。山積みに野菜やら果物にはそれぞれ特別な番号が書いてありそして100gいくらと書いてある。それを袋詰めして近くのはかりに載せる。はかりには先の特別な番号が書いてあるボタンがついている。はかりの上に袋詰めした野菜をのせたまま該当するボタンを押すと値段がかかれたバーコードシールが印刷される。そのシールを袋に張る。後はレジでバーコードがスキャンされて会計となる。
と今書いていて思い出したが千葉そごうの地下の F1/2(じゃなかったか?)だかが似たようなシステムをとっていた気がする。ただし日本では全部係りの人が入力してくれる。日本のデパートはいたれるつくせりだ。
スーパーで買い物を済ましてさらに大き目のレジ袋に買ったものを詰め込む。大きなスーパーではいまやレジ袋は有料らしい。これは世界的な流れなのかもしれない。で一生懸命レジ袋に詰める込むとこれがいとも簡単にレジ袋は破けてしまうのだ。どういう理由かは知らないが日本のレジ袋よりそうとうよわっちい。10回戦ったら10回とも日本のレジ袋が勝つだろう。椎名誠風にいえば、「全世界レジ袋耐久選手権があったら毎回日本は優勝候補だがクロアチアのレジ袋は毎回地区予選での敗退は間違いないのだ。間違いがないといったら間違いがないのだ。」と言ったところか。
ここでも文化の違いというのを感じる。日本では過剰包装の上に全世界レジ袋耐久選手権の常勝のレジ袋を持つ。これはどこの誰だか知らないが、夜な夜なレジ袋を破っては捨て破っては捨て耐久度を測っている人が日本のどこかにいるということで、また過剰包装といわれような何しようがお客さんのためにせっせと包装している人がいるということだ。そして、それを使う一般の人たちは”何も考えることなく”その便利を享受する。一方ザグレブでは過剰包装もしないし弱いレジ袋をカイゼンするような事はないが、それを使う人たちが”考えながら”いわば各自が責任を持って自立して生活しているのだ。
その差は仕事上の会議の場にも現れる。一つのことを話し合おうとしたら、xylon では多くの人が自分の意見を言う。各自が自立して自分の意見をしっかり持っていると感じる。しかし、日本では会議の場で意見を活発に述べることはない。とこれだけ書くと日本のシステムが悪そうに聞こえるが日本では会議の場で出た問題は”誰だか知らないが”まめな人がいていろいろと”カイゼン”が行われていく。去年の我々の仕事がそうだった。問題は山積みされる。会議の場で解決することはない。しかし、それを振られた何人かの優秀なプログラマが身を粉にして解決していくのだ。逆に今の xylon との会議は各自が意見を述べるあまり進んでいないと感じることもしばしばだ。勿論、その中で自然と誰かがリーダシップをとって議論は進み解決へと向かう。しかし解決までの経路は明らかに違う。議論の中で優秀な人が現れてリーダーシップをとって具体的に解決していくヨーロッパ方式と、議論の中で解決しないけど知らない間に誰かががんばって問題を解決していく日本方式。議論で勝つことによってリーダが決まっていくヨーロッパ方式と、議論はしないでみんなが控えめにしていくことで多くの年月がたつことでリーダが浮き彫りにされていく日本方式。
どっちがすぐれているとは一概に言えないがまぁいずれにせよ文化の違いがそこに存在するように思う。